草津温泉「ホテル一井」
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INTERVIEW

人が集う場所で、自分のこと以上に、
その人を想うことができる仕事

第二回
草津温泉「ホテル一井」若女将 市川忍

2017.05.10

いま、群馬県・草津温泉には、多くの観光客や湯治客が押し寄せている。東京からバスで三時間、鉄道の駅もない、とてもアクセスの悪いエリアにもかかわらず、日本人・外国人問わずたくさんの観光客が訪れ、質の高い温泉に浸かり、温泉街を散策し、湯もみ体験に興じている。街の中心には、有名な「湯畑」があり、夜になると湯畑から立ち上がる湯煙に照明が当てられて幻想的な光景になる。まるで“温泉ワンダーランド”である。創業300年を超える老舗旅館「ホテル一井」は、その湯畑に面した絶好のロケーションに位置している。「Switch Bright」の第二回は、この「ホテル一井」を紹介する。

社員の幸せが私の幸せ

ホテル一井が創業したのは江戸中期。なんと300年以上の歴史がある。今の社長は10代目。ホテル一井の若女将である市川忍氏(以降、市川氏)は、三姉妹の長女として生まれ育った。子供のころから旅館に出入りしていて、「忍ちゃん、忍ちゃん」と可愛がってもらった。「忍は、将来一井を継ぐのよ」ということを周囲からずっと刷り込まれてきた。でも、実はそう言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。高校生のころまでは、反発心からか「旅館を継ぐなんて、絶対しない。お嫁さんになって専業主婦をやるんだ」と考えていた。大変な思いをしながら旅館を切り盛りする女将(母親)を見ていて、「こんな田舎に残って大変な仕事をするなんてまっぴら」だと・・・。住まいは旅館のすぐ隣。自宅で勉強していると、宴会場で騒ぐ声が聞こえてきた。騒々しさを恨めしく思いながら、「大人はいつも飲んで食べて歌って騒いで、いい気なもんだな」と思っていた。女将である母親から、「あの人たちは、一年間一生懸命働いて、そのご褒美としてここに来て楽しんでいるんだよ」とたしなめられた。

ところが、いまは、すっかり女将業が板についている。その変化はどう起こったのだろうか。 「やっぱり、一井が好きなのだと思います。自分のルーツと言いますか、育ったこの場所とほかを比べると、結局ここが好きということになるんです。短大を卒業した後、東京YMCA国際ホテル専門学校のホテル専攻科に入学しました。ホテルや旅館の勉強をしつつ、あわよくば別の資格を取って別の道を歩むこともできるだろうというあいまいな気持ちでした」

日本の企業の平均寿命は23・5年。でも、ホテル一井はその15倍近く、300年以上の歴史がある。その歴史には重みがあるし、お金で買えないし、すぐには作れない。

「300年の歴史は、一井の財産です。その財産を守り、バトンをしっかりつないでいかなければならないという責任の大きさは感じています」

市川氏は、まさに宿命として300年以上続く家業を継いだ。宿命だし、まわりからの期待が大きいからだけれど、最後は自分で家業を継ぐことを決めた。その重みを感じながら、市川氏は自分が居るべき場所で、やるべきことを担う決断をしたのだった。31歳のときだった。

市川氏に旅館業の魅力を聞いてみた。

「旅館にはドラマがたくさん生まれます。ここでプロポーズをされたカップルが結婚して訪れたり、または子供を連れてきてくれたり、60年も前に訪れた人が当時ここで受け取った記念品を見せに来てくれたりすることもありました。一方で、ここで人生の終焉を迎える(お亡くなりになる)方もいます。そんな、小説以上にドラマチックな出来事に立ち会えるのは旅館の魅力だと思います。しかし、やっぱり、旅館の魅力は“人”だと思うんです。人が集まって影響し合い、寄り添い合う場所。その場所ができていくのを見ているのが私にはこの上なく楽しいです。この老舗旅館のバトンを繋げるために一緒に走ってくれているみんなが成長したり、『こんなことやってみたいんですよ』という発言をしてくれたり、楽しげに接客しているのを見ているのが私は好きなんです。平たく言うと、社員の幸せが私の幸せです」

「社員が幸せであること。それが一番」
売り上げとかクチコミの高評価というのは、それに必ず連動してついてくるものだと、市川氏は確信している。

V字回復の秘密

筆者が初めて「ホテル一井」を訪れた5年前は、経営状況が最悪のときであった。リーマンショックからやっと景気が回復しかけたと思った矢先に東日本巨大地震が発生した。日本全体に温泉旅行どころではないという気運が拡がった。一井は、財政難に陥っていた。現場にはぎすぎすした空気が流れ、どことなく居心地の悪い空間だった。それが、いまや売り上げも利益も絶好調である。スタッフは皆、楽しそうにお客さんと会話をしている。この5年間に、一体何が起こったのだろうか。

「簡単に言うと、意識が変わったんです。それ以前は、『経営者が何でも決めて従業員に指示して動いてもらう』という感覚ですべてを動かしていました。社員も自分で動くことはせず、なんでも経営陣に聞いてきては指示を仰ぐという動き方しかしていませんでした。そこをいったんリセットして立ち止まり、これからどうしていくかを社員全員で考えるようにしたんです。それまでは、『仕事を任せる』ということがなかなかできませんでした。でも、任せるということをするようになると、スタッフは自分で考えるようになったし、責任感も強くなっていきました。今では、お客さまから『一井さんは、とにかくスタッフが気持ちいいねえ』というお声をたくさんいただくようになりました」

少し難しい話をすると、サービス業経営の世界に「ビジネス・プロフィット・チェーン(ビジネスの利益の鎖)」という考え方がある。経営者が利益を追求したければ、まずは社員を幸せにしなさい。そうすれば、社員はお客さまを幸せにするし、結果、リピート利用してくれる。または、クチコミで新しいお客さんを呼び寄せてくれる。そんな論理であるが、ホテル一井のV字回復の事例を聞くと、まさにこの論理通りになっている。

お客さんと会話がしたい、接客がしたいという気持ちは、ホテルや旅館で働きたいと考える人は全員が持っている。一井では、「どんどん、やっていいよ。お客さまのためを思ってやることならどんどんやってください」ということを言って、社員が自発的に動ける環境を整えたのである。

「自分のことより、人の心に寄り添って人を思うことが好きな人、自然とそれができる人には、良い仕事だと思います。自分のために何かをする喜びよりも、自分以外の誰かに何かをしてさせ上げて喜んでもらえるのを見る喜びの方が大きな喜びを得られると、私自身は思っています」

旅館の“おもてなし”とは、多対一。

若者にとっての旅館で働く魅力を聞いてみた。

「旅館って、衣食住のすべてが含まれた空間ですよね。旅館の仕事の、どの切り口でも、自分が好きなこと、自分のこだわりを表現することができるのです。そのなかで、人と人がつながっていったり、人と人が思い遣っていったりするのをコーディネートできるんです。“おもてなし”の究極が旅館だと思っています。日本人である自分が持っているはずの“おもてなしの精神”を掘り起こして発見したりできるのも旅館の醍醐味です」

では、市川氏が考える「おもてなし」とは、何なのだろうか。

「よくサービスとホスピタリティの違いという話をしますよね。サービスは一対他の関係で画一的に行なうことであり、ホスピタリティは一対一の関係でそのときその場所でその人のためだけにすることであるという教えです。でも、旅館のおもてなしって、それ以上だと思っています。つまり、多対一なんです。複数のスタッフで一人のお客さまに施しをしていくのが日本のおもてなしなのだと思います。『多』というのは、スタッフだけではなくて客室だったり、お風呂だったり、景色だったりします。すべての要素が束になって一人のお客さまを思い遣りながらもてなす。それが究極のおもてなしなんだと思います」

旅館に向いている人と、そうでない人の共通点

「こんな人が旅館には向いている」、逆に「こういう人は向いていない」という傾向はあるのだろうか。

「何といっても素直な人です。お客さまやスタッフの声に人の言うことに耳を傾けられる人が向いています。例えば、夜中にご到着のお客さまがいたとします。キッチンはとっくに火を消してしまって料理提供はできないというタイミングで「何か食べたいのですが……」と言われたときに、「この時間では無理です」と言ってしまうのではなく、代替案を一生懸命考えて提案する。それが、きっと素直な人なのだと思います。お客さまの気持ちに寄り添って、素直に声に耳を傾けて願いをかなえて差し上げる努力ができる人ですね。反対に向いていないと感じる人の共通点は、自分のことしか考えられない人です。自分はこういう教育を受けてきて、こういう経験を積んできたんですということばかり誇示する人。そう言う人は、自分の考えや判断はつねに正しいと思っているので人の声に耳を傾けません。お客さまを品定めしてしまって安いプランでお越しのお客さまを見下してしまったりするのです」

田舎の優しさに包まれる

最後に、市川氏は「若い人からはなかなか見えない旅館で働く魅力」を語ってくれた。
「草津のような温泉地で暮らし、働くというイメージって、働く前はまったく想像できないと思うので、ものすごく不安だと思います。でも、その不安が大きければ大きいほど、入ってきて田舎の優しさに包まれて、受け入れてもらって、馴染んだ時の感動は大きいんです。その温泉地の一員になれる、仲間に入れてもらえて、その温泉地を一緒になって盛り上げるチームの一員になれる。そこが居場所に思えてくる。そんな感動を味わってもらいたいですね」

Information

草津温泉「ホテル一井」

  • 住所:〒377-1711 群馬県吾妻郡草津町411
  • 電話番号:0279-88-0011
  • ウェブサイト:http://www.hotel-ichii.co.jp/
  • 客室数:124

(株)ホテル一井 専務取締役
市川忍氏 Shinobu Ichikawa
〈プロフィール〉1971年群馬県草津生まれ、93年立教女学院短期大学英語科、94年東京YMCA国際ホテル専門学校ホテル専攻科を卒業、94年株式会社ホテルニューオータニ入社、ホテルニューオータニ幕張 ゲストサービス課配属。ホテルニューオータニ(東京)東京本社、ゲストサービス課へ異動。96年ベルビューコミュニティーカレッジ(シアトル)へ留学。アメリカ留学のため、株式会社ホテルニューオータニ退社、98年、株式会社ホテル一井入社、東京営業所勤務を経て、草津温泉現地へ。財務、人事関係などを中心にホテル一井全般に携わる。専務取締役 若女将として現在にいたる。

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Staff Interview

かけがえのない仲間たちが、
仕事へのモチベーションです。

レストラン 
北村洋敬さん

私は以前、スポーツインストラクターや鍼灸師として、関西方面で働いていました。ある日、関東圏でも働いてみたいと思い、大好きな山に囲まれている草津で働くことを決めました。当初は、期間限定の派遣職員として勤務をスタートし、契約満了と共に一旦は職を離れました。その後、ホテル一井の同僚から熱心な誘いがあり、現在は正規雇用職員として、勤務させていただいています。

旅館で働く魅力は、個人プレーではなく、同僚とチームとして動くことです。各部門で協力・連携し、お客さまのニーズに応えていくこと。同じ方向を向く仲間たちと、旅館全体でお客さまにおもてなしをすることは、魅力でもありますし、本当に楽しいと感じる瞬間です。これは、自分がホテル一井に戻ってきた理由でもあるのですが、かけがえのない仲間たちが、仕事をするうえでの最大のモチベーションです。
私たちの仕事はモノを売っているのではなく、時間と空間を提供しているのです。どんな仕事でも大変ですし、不満もあるとは思いますが、直接話を聞いてくれる上司、企業風土や文化が、ホテル一井にはあります。

素晴らしい会社と、最高の同僚との関係が、お客さまにいい形で波及していると思います。お客さまと関わりたい、地域と関わりたい方、思いきり働きたい方、独立心の旺盛な方に、この仕事が向いているのではないでしょうか。将来は、経営にも意識的に関わっていきたいですね。

Staff Interview

お客様の人生における
重要な場面に立ち会える仕事です。

フロント 
今井由紀さん

私が就職活動をした際は、業界・業種を問わず、興味を引く企業の説明に耳を傾けました。漠然とした就職活動の中で、偶然、草津温泉のホテル一井と出合いました。草津という日本有数の名湯を有する地でも、最高の立地にあるホテル一井で、たくさんのお客さまとの出会いを想像したとき、自分自身の可能性を広げることができるのではないかと、次第に思うようになりました。

旅館で働く魅力は、たくさんのお客さまとのコミュニケーションを通じ、色々な知識の吸収ができること、世界が広がることだと思います。また、言葉の壁を感じた際に、お客さまに何とか伝えようとすることも成長する切掛けと感じます。例えば、景観の良いお部屋をご用意できない場合や、お客さまの要望に応えられないとき、要望と現実のギャップを埋め、どうバランスをとるかなど、難しいこともたくさんありますが、お客さまのニーズをどう拾い、提供できるかは、旅館で働く楽しさでもあり、醍醐味だと思います。また、旅館はお客さまの人生における重要な場面に立ち会える仕事です。家族旅行や結婚記念日、プロポーズのお手伝いと、この仕事でなければ携われない場面がたくさんあります。

将来の目標は、旅館で長く働いて、地域全体を一緒に引っ張っていくような仲間を一人でも多く増やしていきたいです。結婚と出産を経て、また戻りたいと思えるような仕事。そんな環境づくりができるような人になりたいです。

Message

人生の先輩から若者に向けて
「仕事や人生を楽しむコツ」とは?

人間力

株式会社ホテル一井
若女将
市川忍氏 Shinobu Ichikawa

Editor's Note編集後記

『“おもてなし”とは、多対一。旅館のすべての要素が束になってお客様をおもてなしする…』
女将さまへの取材で一番印象に残った言葉です。

直後の取材でレストランスタッフの北村さんが、「旅館で働く魅力は、個人プレーではなく、同僚とチームとして動くこと…。同じ方向を向く仲間たちと、旅館全体でお客さまにおもてなしを…」と話した。うん、女将さんの想いと一緒だ!心の中でそう呟いた。気持ちの良い取材になった。女将さまの優しさと溢れる人間味が、メッセージ動画の最後の1秒に詰まっています。(山本拓嗣

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