「越後長岡よもぎひら温泉 和泉屋」
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INTERVIEW

旅館はワンチーム、社員は家族同然なんです。

第二十三回
越後長岡よもぎひら温泉 和泉屋 女将 
田﨑久子

2020.01.20

2004年10月23日夕刻、新潟県中越地方を震源としたマグニチュード6.8、震度7の直下型地震が発生した。震源にほど近いところに位置する長岡・蓬平(よもぎひら)温泉の旅館「和泉屋」の食事処では、夕食のお客さまをお迎えする準備が整ったころだった。真下から「ズドン、ドスン!」という衝撃が突然襲い掛かった。縦揺れが続き、家具が倒れ、食器や鍋が床に散乱した。阪神・淡路大震災に匹敵する規模の巨大地震の発生だった。長岡市内と蓬平温泉を結ぶ道路は分断され、和泉屋は、孤立した。その後も、震度5クラスの余震が続いた。

地震発生後3日目に、ようやくすべてのお客さまを安全な場所に送り届けることができ、建物は無人になった。社員と共に久子女将たちも避難しようとしたとき、先代の経営者であったお父様の姿が見当たらない。探すと、旅館の手前の橋のたもとに、旅館をぼーっと見上げるお父様を発見した。長岡市内にこれから非難しなければならないと伝えようとすると、お父様はこう言った。

「おまえ、ここで営業再開しようなんて思っていないだろな。そんな大それたことを考えていないだろうな。そんなことはできるわけがないし、親として、そんな苦労をお前たちにさせたくはない。おれは諦めたからな」

その時、お父様は、館内を見回り、惨憺たる旅館の姿を確認して、「再開は不可能」と判断していたようだった。そして、親である自分が諦めたら、事業を継承している娘たちも気兼ねなく事業継続を辞められるだろうと考えたのだった。

久子女将も、内心、半分諦めかけていた。 にもかかわらず、口から出た言葉はこうだった。

「お父さん、私たち、いくつだと思っているの? 48だよ。どれだけ自分たちが新しい人生をつくっていこうと思ったとしても社会が受け入れてくれない年齢になったんだよ。お父さん、私たちは、ここで生きていくしかないんだよ」

「あなたはリタイアした身分なんだから、心配しないで悠々と見ていてくださいよ」

女将は、そんなことを先代であるお父様に伝えたかった。そんな自信もないし、たんなる空元気でしかないのだけれど、思いがけず出たセリフは、こんな軽口だったのだった。その後、お父様は、旅館に来ることはなかったし、事業に対して意見を言うこともなくなったという。

社員は家族。地域の人たちは親戚

久子女将はこの宿の八代目。四人姉妹の三女。次女の姉とは双子である。旅館経営は長女も携わっており、次女が常務、三女の久子さんが社長兼女将という役割である。実際には三姉妹全員で女将業を担っている。

和泉屋は創業明治2(1869)年、高龍神社の参拝客向けの7部屋ほどの湯治場として生まれた。久子女将の父は七代目、若いころは旅館業を継ぐつもりはなかったが、継ぐことが決まっていた弟が亡くなってしまったために、長男である自分が家業である旅館業を継承したのだった。

七代目のお父様は、ものすごく勉強家であった。繁盛旅館があると聞けば全国どこにでも足を運んで自分の目で見て自施設に使えるところがあればすぐに取り入れた。旅館経営の研修会にも頻繁に出かけた。露天風呂を増設したのも、地域で最も早かった。

「ヒトに教えを乞うことを恥じてはいけない。自然に教えてもらえるように、つねに頭を低くして素直であること、そして分からないことをそのままにするな」

こんな教えを日々聞きながら、幼少期の久子女将は、勉強熱心、ワーカホリックな父親の働く背中を見ながら育ち、人としての生き方や在り様を自然と学んだ。

「根はやさしい人だけれど、働くことにかんしては、すごく厳しい人でした。『働かざる者、食うべからず。汗を流して学ぶんだ。汗を流すから学んだことに価値があるんだ』と言っていました」

久子女将にとって、父親と過ごす生活そのものが人生の、そして旅館経営の学校だったのだ。

社員は家族。地域の人たちはみな親戚と同然

お父様から久子女将が学んだことは数知れずあるが、その中でも特に大きな教えが、社員や地域の人たちとの人間関係の在り方だった。そして、それが和泉屋のDNAになっていった。

「父は、『お前たちが、ご飯を食べられて、普通に学校に行けるのも、社員のみんなが頑張っているからなんだ。それを絶対に忘れるな』が口癖でしたね。実際、地元の方々の応援で旅館運営が成り立っていました。父は、地元のパートアルバイトの人たちへの感謝の気持ちと声がけは絶対に忘れなかったです。そういう父を見てきたので、私たち姉妹も人への感謝の気持ちの大切さは身に染みているのだと思います」

旅館業界のなかには、社員を家来(けらい)扱いする殿様気分の勘違い経営者もいまだにいるが、久子女将の社員の接し方を見ていると一切そんな雰囲気は感じられない。おごった気持ち、優越感に浸るなんてことは、これまで一回もなかったという。

「いまだに覚えているのは、小学生の頃の食事です。お客さまの食事が一段落すると、板張りのところを社員と一緒に雑巾がけをして、ちゃぶ台を運んできて社員と一緒に大なべを囲むというスタイルでした」

社員はほとんど住み込みだったこともあり、久子女将たちにとって社員は、家族と同義語だったのだ。

お父様の言いつけはもう一つあった。

「商売は生き物だから、どうしようもなくなることがくるだろう。出入りの業者の皆様には、誠意をもって対応しなさい。どうしようもなくなるとき、本当に困ったときに、助けてくれるのは人間関係を作ってきた業者さんたちなのだから」

筆者は、ホテル・旅館をたくさん取材したり訪問したりしているが、そこで最も意識するのは「働く人たちが楽しそうかどうか」である。その宿が良い宿かそうでないかの判断軸にすらなっている。その点、和泉屋は、社員はみな自然体で楽しそうである。社員同士の仲も良いし、スタッフとお客さまの距離感も近い。地域の人の集いの場にもなっているからか、アットホームな雰囲気が充満している。

そんな印象を久子女将に伝えると、次のように語ってくれた。

「雰囲気というのは、すぐには醸成することはできないんですね。なぜなら日常の延長だから。私たちの口癖は、 “ありがとね”です。旅館は一人でできる仕事ではないから、困ったときに助けてもらえる人間関係をつくることが大切なんです。また、ポツンと一人でいる社員をつくらないようにしています。疎外感を抱かせないようにしています。全員に『自分も仲間の一員なんだ』という意識を持ってもらうように常に意識して接しています。私は30代の女性社員でも“ちゃん”付けで呼んでいるし、男性社員に至ってはあだ名で呼んでいます」

あれだけの地震からなぜ復活できたのか

地震発生から2週間ほどたったころ、和泉屋の経営陣は、メインバンクの本店会議室に呼ばれた。そして、銀行の頭取からこう告げられた。

「和泉屋さん、いままで何のために頑張ってきましたか。ここで諦めたらだめです。もう一回立ち上がる勇気を持ってほしい。私たちができることを応援させてもらいたいので、もう一度頑張ってみませんか」

和泉屋は、長岡になくてはならない存在。絶対になくしてはいけないという思いが地銀にもあった。それに、震災後、止まってしまっていた温泉も復旧した。半ば諦めかけていた久子女将も、旅館経営再開をする決断をした。

震災後、建物の修復のため、和泉屋は9カ月休館した。その間、売り上げは当然ゼロ、それどころか建物の復旧には何億円ものお金がかかる。常識的に考えれば、社員を解雇するのが当然だ。でも、久子女将たちは、どうしても社員を解雇したくなかった。なぜなら社員は家族だから。それまでも大変なことを一緒になって乗り切ってくれてきた大切な家族を、金銭的な問題だけで別れる、つながりを絶つということが、考えられなかった。「縁が切れる」ということが、とにかく感情的に受け入ることができなかった。

結果的には、一時解雇する結果にはなったが、国の支援もあって失業手当がすぐに支給されるなどして、社員に迷惑をほとんど掛けずにすんだ。そして、旅館再開時には、ほとんどの社員が戻ってきてくれた。

「あの地震は、何の意味があったとかって考えることがあります。それを考えると、やはり、あの地震は、社員に対しても、業者の皆様に対しても、お客さまに対しても、地域の方々に対しても、普段から支えてくださっていることへの感謝を再確認できた出来事だったと思っています」

あれだけの災害に合っても、やってこれたのは、人としての在り方、商売をする上での姿勢をお父様から継承し、それを忠実に守っているからなのだろう。

お父様は、2019年2月19日に永眠された。享年94歳だった。

「もう一度、蓬平を見たい」と言っていたお父様の希望通り、葬儀が済んで出棺する霊柩車が、遠回りをして蓬平温泉を回遊した。そのとき、久子女将は目を疑った。和泉屋の前で、社員が総出で立っている。町中の人たちが道端に出てきていた。他の旅館の女将さんやスタッフも真冬の極寒のなか、みんながお父様の旅立ちを見送りに出て、待ち受けてくれていたのだった。霊柩車の後を追うバスに親戚一同が乗り込んでいたが、全員の涙が止まらなかった。

改めて、大勢の人に愛された素敵な人だったと、久子女将は実感し、父親の残した旅館を引き継ぐ覚悟を再確認したのだった。

Information

越後長岡よもぎひら温泉 和泉屋

  • 住所:〒940‐1122 新潟県長岡市蓮平町甲1508‐2
  • 電話番号:0258‐23‐2231
  • 客室数:43室
  • ウェブサイト:https://www.yomogi-izumiya.com/

女将
田﨑久子氏 Hisako Tazaki
1957年1月2日、四姉妹の三女として生まれる。
1977年短大卒業後、和泉屋入社。
2000年和泉屋代表取締役就任。
2004年中越大震災にて被災。翌年8月、営業再開。
家族構成、二男一女と孫3人。

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Staff Interview

伝統は守りつつも、時代に合った手法も必要だと考えています

仲居頭(ルーム長) 星野 緑さん
入社9年目 長岡大学 経済学部卒

大学在学時は経済学部を専攻していたこともあり、多くの友人は金融関係に進む方が多かったですね。 実を言えば他社でも内定をいただいていたこともあり、宿泊業を選んだことに、家族から反対を受けたこともありました。理由として、時間が不規則で、様々なお客様に対応することは大変だろうということ。今思えば、親心だったんでしょうね。 ただ、自分でやりたいと思って就いた仕事なので、いつの間にか10年目に入ります。すでにベテランの域ですね(笑) 当初は反対していた両親も、「あなた変わっているね」と言いながら、本心では喜んでくれているように見えます。

今の悩みは、世代間ギャップでしょうか。3‐4歳の違いは大きいと感じることが多い。 私はルーム長として、お客様のことを第一に考え、チームを纏めていかなければなりません。 厳しく指導するときもありますが、若い子のアイデアは積極的に取り入れるようにしています。 教えながら学ぶこともあるし、何より若い子のアイデアを取り入れることで、新たな発見もある。 伝統は守りつつも、時代に合った手法も必要だと考えています。

サービス業、特に旅館業の良いところは人と休みが違うこと。平日はどこに行っても空いています(笑)。それから何といっても様々なお客様に接すること。お客様の想い出に寄添えること。 逆に難しいことは、後輩に的確な指導ができないことですかね。経験したことじゃないと、上手く伝えられないことが、やっぱり難しいですね

今の目標は、次の世代を育てていきたい。この宿で仲間とともに、次の時代を作っていければと考えています。

Staff Interview

部署間のコミュニケーションするキッカケになっている

フロント 木下 だいあさん
入社7年目 高卒

私が宿泊業を選んだ理由は、高校時代のスーパーマーケットでのアルバイトを通じで、接客が楽しいと感じたからです。 また、生まれ育った大好きな地元を離れたくなかったことが、和泉屋を選んだ理由です。 以前から、子供やお年寄りと接することが好きだったこともあり、保育士や介護士になることも考えました。ただ、明確な将来の目標を持っていなかったこともあり、進学よりも就職する道を選びました。 今は、旅館業を選んで本当に良かったと感じています。

それぞれのお客様の要望は違う。そこに対応する難しさと楽しさがあります。 ここ和泉屋は、地元のお客様の利用が多い施設なんです。その分だけ、お客様とスタッフの関係性が深く距離も近い。だからこそ情報が重要だと考えています。お客様の趣味趣向、アレルギーなど、顧客情報をシステムに入れ、スタッフ間で共有することを意識しています。 それ以上にスタッフ同士、経営層とスタッフの距離が近いのが特徴(笑)  まさに家族のような付き合いが、この宿の魅力です! 互いに相談しやすく、ものごとを頼みやすい関係ですね。

私はフロントスタッフですが、仲居の仕事も手伝うことが多いです。 他部署の業務を理解出来るのも楽しいです。 私が潤滑油となり、部署間のコミュニケーションするキッカケになっている気がします。 もちろん大変さや忙しさも感じますが、それ以上に得るものが多いですね。

今、足りないと感じるのは語学力。英語が出来ないのはキツイです。今後はしっかりと学んでいきたいと考えています。 また、新潟県ですから日本酒の知識も深めたいですね。お客様へおススメも積極的にしていきたいです。「米どころ新潟」への期待は大きい!! しっかりとした知識は必要です。 まだまだお客様の要望にきっちり対応出できていない。経験不足も感じています。経験と学びを積み重ねていきたいです。

人と話すことが好きな人であれば、向いているのがこの仕事。多くの方に宿泊業を選んで欲しいと願っています。 だって、私が本当に楽しいと思って続けている仕事だから。

Message

人生の先輩から若者に向けて
「仕事や人生を楽しむコツ」とは?

人間力

越後長岡よもぎひら温泉 和泉屋
女将
田﨑久子氏 Hisako Tazaki

Editor's Note編集後記

田﨑女将が言っていた言葉。 「旅館は一人でできる仕事じゃない。だから困ったときに助けてもらえる人間関係をつくっておくことが大切なんです」 だから社員を家族同様に思っているし(従業員とは絶対に呼ばない)、業者の方々にも誠意を持って接する(支払いは月末〆の翌月10日払い!)。 2004年の中越地震で被災して、9ヶ月の休業を強いられたけれど、社員のほとんどが戻ってくれたし、銀行も融資してくれた。地域の方々もいろんな形で支援してくれた。 地域に支えられた旅館の在り方とともに、とっても大事な教えをたくさん頂いた取材となりました。
近藤寛和

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