ところが、いまは、すっかり女将業が板についている。その変化はどう起こったのだろうか。
「やっぱり、一井が好きなのだと思います。自分のルーツと言いますか、育ったこの場所とほかを比べると、結局ここが好きということになるんです。短大を卒業した後、東京YMCA国際ホテル専門学校のホテル専攻科に入学しました。ホテルや旅館の勉強をしつつ、あわよくば別の資格を取って別の道を歩むこともできるだろうというあいまいな気持ちでした」
日本の企業の平均寿命は23・5年。でも、ホテル一井はその15倍近く、300年以上の歴史がある。その歴史には重みがあるし、お金で買えないし、すぐには作れない。
「300年の歴史は、一井の財産です。その財産を守り、バトンをしっかりつないでいかなければならないという責任の大きさは感じています」
市川氏は、まさに宿命として300年以上続く家業を継いだ。宿命だし、まわりからの期待が大きいからだけれど、最後は自分で家業を継ぐことを決めた。その重みを感じながら、市川氏は自分が居るべき場所で、やるべきことを担う決断をしたのだった。31歳のときだった。
市川氏に旅館業の魅力を聞いてみた。
「旅館にはドラマがたくさん生まれます。ここでプロポーズをされたカップルが結婚して訪れたり、または子供を連れてきてくれたり、60年も前に訪れた人が当時ここで受け取った記念品を見せに来てくれたりすることもありました。一方で、ここで人生の終焉を迎える(お亡くなりになる)方もいます。そんな、小説以上にドラマチックな出来事に立ち会えるのは旅館の魅力だと思います。しかし、やっぱり、旅館の魅力は“人”だと思うんです。人が集まって影響し合い、寄り添い合う場所。その場所ができていくのを見ているのが私にはこの上なく楽しいです。この老舗旅館のバトンを繋げるために一緒に走ってくれているみんなが成長したり、『こんなことやってみたいんですよ』という発言をしてくれたり、楽しげに接客しているのを見ているのが私は好きなんです。平たく言うと、社員の幸せが私の幸せです」
「社員が幸せであること。それが一番」
売り上げとかクチコミの高評価というのは、それに必ず連動してついてくるものだと、市川氏は確信している。