Editor's Note編集後記
「人が人を癒す」経営に舵を切った渡辺社長の言葉がとても響きました。私も、出張や取材・旅行などでホテルや旅館を利用することはあります。建物や設備に魅力を感じることもありますが、最後まで印象に残るのはその場所で働いている人の親切心や他愛もない会話です。世界各国から外国人が訪れるこの地域に、人が人を癒す旅館があることに誇らしく思いました。
(原由利香)
INTERVIEW
人が人を癒す場所。
旅館は日本の伝統と文化の結晶です。
2018.10.22
旅してみたい国として人気がますます高まる日本。その日本に初めて行くとしたらぜひ見てみたいもの、「Japan」と聞いて最も強くイメージするもの、その一つが富士山ではないだろうか。アメリカに行ったらグランドキャニオンを、中国に行ったら万里の長城をぜひ訪れたいと思うのと同じように、日本に来た旅行者は、ぜひ富士山を見てみたいと思う。そして、河口湖というデスティネーションは、左右対称の富士山を裾野まで見渡せるスポットとして訪日外国人に非常に人気が高くなっている。今回取材した若草の宿「丸栄」は、そんな河口湖を代表する老舗旅館。富士山人気に胡坐をかくことなく、日本の心を何よりも大切にお客さまと社員の幸せを願いながら運営している珠玉の宿だった。
旅館の子に生まれて
渡辺洋社長は、ある種独特の雰囲気を醸し出す経営者である。
柔らかく優しいオーラを放つ一方、目力が強く、どこか厳しさと威厳を感じる。
「この人は、腹をくくっているんだな」ということが伝わってくる。
先代から引き継いだ日本旅館という家業を継承する使命を、迷いなく、覚悟をもって担っている。そんな第一印象を感じる人だった。
若草の宿「丸栄」は、渡辺社長の曽祖父が創業した旅館。渡辺社長は、何歳から働いていたのか記憶がないほど、幼いころから宿の手伝いをしていた。毎日、学校から帰ると、宿題を済ませてすぐに旅館の現場に入り、宴会のお膳を準備したり、宴会中に客室の布団を敷くといった手伝いをしていた。僅かなおこずかいをもらい、「働く」ことを学んだという。
当時は、冬になると、客足が極端に落ちた。「お客さまが来ない」とどうなるか。お客さまが来ないということは、旅館にお金が入らない、そうすると家にお金が無くなりご飯が食べられなくなる、学校にも行かれなくなるかもしれない、と幼い胸が不安に駆られた。
「祖母からよくアリとキリギリスの物語を聞かされていましたが、稼げるときに稼がないと、いつどうなるか分からない怖さを、幼いころから肌で感じていた気がします」
渡辺社長は、仕事や経営ということの本質を、子どものころから身をもって学んできたのだった。
裏方仕事が一段落すると、宴席のお客さまを喜ばせるために、子役として歌を歌った。父は楽団を組んで演奏し、母は歌と司会、祖母は舞を披露した。そのころは増築を重ねた継ぎはぎだらけの旅館だったため、せめて歌や踊りでお客さまの印象に残るように芸を磨いた。
東京の大学に進学後も、毎週金曜日の夜には実家に戻り、土曜日は朝からチェックアウト・チェックイン業務、夜は大学で学んだ演技で紙芝居や民話の語りを上演、お客さまを二次会処へ招き入れて売上げを伸ばし、日曜日の夜遅くに再び上京するという生活を繰り返した。
卒業後は大手旅行会社のグループ会社でマーケティング部門を経験させてもらった。どのようにしたらお客さまに喜ばれる商品が作れるか、どうしたら集客ができるのかということ、そして、上から指示されるという下の立場を経験できたことが一番の収穫だった。
建物ではなく、人が人を癒す
社会人3年目のとき、旅館が本格的な設備投資を行なう時期に入り、家業に戻った。
20年を経た2016年、渡辺社長は、父親から引き継ぎ、満を持して代表取締役に就任した。名実ともに経営者になったとき、改めて自分に言い聞かせたことがある。
若いころは、「お客さまに喜ばれる宿になるためには、時代の先端を行く設備を整えなければならない」という、強迫観念に似た思いを抱いていた。ブラウン管テレビをいち早く薄型テレビに切り替え、数年後には大型のテレビを導入した。一定レベル以上の旅館の客室には空気清浄機や加湿器が置かれていることが一般化すると、すぐに買い揃えた。
あるとき、はたと思った。
「施設や設備では大きな会社には勝てない」
つまり、施設や設備の勝負では資本力の大きなところが有利になる。そこで戦っても勝ち目はない、と。そして、渡辺社長は、「人が人を癒す」ことに一番力を入れる経営に舵を切ったのだった。安全・安心・清潔を軸に、お客さまの快適性を追求し続けるのは当然の責務だが、その一方で、無理をして時代の先端を走る競争をあえて捨てたのだった。
「人が人を癒す」ことに一番力を入れる経営とは、具体的にはどんな取り組みだろうか。
「お客さまから部屋や風呂を褒められるよりも、スタッフを褒めていただくのが一番嬉しいのです。たとえば、『この仲居さんのサービスを受けると心が和む』といった人に育ってほしいと願っています」
そのために、渡辺社長はスタッフの研修に力を入れた。まず接客マニュアルをゼロから作り、教育システムを整えた。
「単に見て覚えなさいではなく、教え方を工夫しました。まずは基本をしっかりと伝えて、それを身につけさせ、その後余裕が出てきて初めて、自分らしさを出してもらう方式です。ひとり立ちするまでには1ヶ月ほどかかりますね」
まさに、守破離の手順だ。
「みんなのチームワークを大事にし、ひとりだけが忙しいという状況をなくすようにしています。そのためにも、お互いを尊重し思いやる気持ち、『ありがとう』と『ごめんなさい』が自然に出るような空気をつくっているつもりです」
誰かのために働きたいと思えるか
働くということは、価値を作っていくことに他ならない。価値を作って誰かに提供し、その対価としてお金をいただくことがビジネスである。誰かを喜ばせたり、幸せにすることが働く目的であり意味である。そして、接客業というのは、価値提供をして幸せにして差し上げる対象が目の前にいる仕事である。つまり、自分の仕事の結果が可視化できる仕事であり、これは遣り甲斐を直に感じられる。製造業では味わえない仕事の醍醐味だ。
接客業に向き不向きがあるとすれば、「他人の喜びを自分の喜びにできるかどうか」という資質のあるなしである。渡辺社長も、同様のことを非常に強く感じているという。
「残念ながら教育には限界があります。人材難の時代ですが、採用の際にはこの資質を一番重要視しています。大変なことを乗り越えてでも誰かのために働きたいと思える人しか続かないのです。資質が備わっていなければ、お客さまに良いおもてなしができないばかりでなく、社員同士のコミュニケーションも上手くいきません」
この資質は、どのように確認しているのだろうか。
「旅館は、衣食住のすべてを提供する仕事です。その人の育った環境や家族、親御さんから受けた愛情が、意識せずとも、日々の仕事振りや表情に必ず現れます。裕福な家であるとか甘やかすといった意味ではなく、躾や道徳観も含め、家庭の愛情をたくさん注がれて育った人は、他人にも豊かな愛情を自然に注いであげられるのです」
結果、丸栄にはそんな社員、利他の精神を持つ人がたくさん集まっている。
「先輩が後輩を指導するとき、自分の仕事は脇においてでも後輩が一人前になるよう一生懸命教える。気力と体力が必要です。そうやって、後輩が一人前としてデビューする。それを見て、指導していた先輩が嬉し涙を流すんです。そんな尊い場面に立ち会えるのも、この仕事をしていればこその喜びです」
人に喜んでもらおう、お客さまの滞在を精いっぱい良いものにして差し上げたい、頑張っている社員を大事にしたい。丸栄を経営する渡辺家の人々は代々が自然とそう思っていた。だから渡辺社長は、自然にそうしている。
人が人を想う力。
これは空気でしか伝わらない。
クレームを素直に聞けるかどうか
最後に、「旅館で楽しく働ける人の共通点」をお聞きした。
「協調性と素直な心を持った人。お客さまからお叱りやご指摘があった際、それがたとえ理不尽なことであっても、一度受け止められるかどうかです。ご指摘があったいくつかの中のひとつでも、もしかしたら自分がもっと努力できたことがあったかもしれないと考えられるか。そういう気づきがあるかないかで、成長が全く違います。すぐに反発するのではなく、ものごとを素直に受け止めることができる人は、お客さまともスタッフとも楽しくやれているようです」
取材の後、私が丸栄を取材したことを知った知り合いの女性から連絡がきた。IT企業で活躍する30代のキャリアウーマンである。
「丸栄、懐かしいです。私が学校を卒業して初めて働いた場所です。私の礎を築いた場所であり、日本人の心、仕事とは何かということなど、私はすべて渡辺社長(当時は専務)から教わりました。心から感謝しています」
日本人としての在り方を考え、会得したい。そう考える人には、ぜひとも日本旅館で働くことをお勧めしたい。
Information
株式会社丸栄ホテル「若草の宿丸栄」
株式会社丸栄ホテル「若草の宿丸栄」代表取締役社長
四世栄吉 渡辺洋氏 hiroshi watanabe
1972年山梨県富士河口湖町に生まれる。90年山梨県立富士河口湖高校卒業、94年玉川大学文学部芸術学科演劇専攻卒業後、JTBグループ株式会社テレップ入社。96年株式会社丸栄ホテル「若草の宿丸栄」入社。専務取締役を経て、2016年代表取締役社長就任。河口湖温泉旅館協同組合理事、日本の宿おもてなし検定運営委員ほか。「芸で名を成す宿は丸栄」と歴代の顧客に言わしめた芸事大好き一家に育つ。趣味は観劇。劇場に行くと元気になれる。お客さまや社員にとっての丸栄もかくありたいと念じ続けている。
Staff Interview
言葉にされない要望も無意識に察知し最善を尽くす。これが当館の接客サービスの特徴だと思います。
フロント経理 小柳 ひとみさん
私は、自然が豊かなことと、いろんなお客さまと接することができるという理由から、当社に入社しました。地元である河口湖エリアの魅力を多くの方に伝えたいという気持ちも大きかったと思います。
当館のお客さまは、ほとんどの方が「ありがとう。また来るね」と、笑顔で帰ってくださいます。実は、今の私の本職は経理なのですが、忙しいときは、朝のお客さまをお見送りしています。お客さまのお荷物を持ち、ご高齢の方や車いすをご利用のお客さまには手を差し伸べます。そんな、当たり前の行動でも、なぜかお客さまはとても喜ばれます。「この旅館の方々は本当に親切ですね」とお客さまから言っていただけることが多いのですが、やはり、そうした瞬間が一番嬉しいですね。
当館の接客の特徴は、お客さまから言われて行なうのではなく、お客さまとの何気ない会話の中から、お手伝いできることを無意識に察知し、私たちのほうから提案することだと思います。なぜ、そういうことが習慣としてできるのかと言いますと、もちろん、社長がそれを率先してやっているということもありますが、みんなが楽しみながら、そして真剣にそうした先回りの接客に取り組みながら、毎日を過ごしているからだと思っています。
フロントから経理に異動になったときは、全く違う仕事内容のため、慣れるまでとても大変だったのですが、それまで私が行なっていた仕事をみんなが分散してカバーしてくれました。いまは以前にも増して楽しく働いています。私は19年ほど勤めていますが、長く続けてこられたのも、こうした素晴らしい職場環境といい仲間のおかげだと思っています。
Staff Interview
世界中から来られるお客さまをチームでおもてなしする。この一体感と充実感が当館の魅力です。
フロント予約 渡辺 ゆりかさん
旅館の仕事では、いろんな世代のお客さまや、海外からのお客さまと接することができます。毎日新しい出会いがあり、飽きることはありません。自分にないものを持っている方に触れ、いつも勉強になります。日々、お客さまを通して成長できる旅館の仕事は、自分にとても向いていると感じています。
旅館の仕事はチームワークが最も大切です。自分ひとりの力で満足してもらうことは無理。一緒に働くみんなとコミュニケーションを取り、連携することによって、到着から出発までご滞在をしっかりお手伝いし、お帰りの際「いい旅館だった」とお客さまに言っていただくことを目指します。その結果、満足された表情のお客さまをお見送りするときというのは、チームで成し遂げた達成感のような、一体感のような、何とも言えない充実感を得ることができます。それこそが旅館の仕事の魅力だと思います。
この大切なチームワークは、やはり職場の雰囲気が良くないとうまくいかないと感じています。所属部署に関係なく小さなことでもみんなで話し合い、ミーティングを行なうことで、チームワークは培われていくものだと思います。当館は、みな仲が良いですし、また全員がお客さまを最優先することができている、つまりみんなが同じ方向を向いて、同じ目的で仕事ができているということも理由のひとつだと思います。
富士山が世界遺産に登録されたことによって、富士山を目的として来られる方が大変多くなっています。出勤時にはその日の富士山の見え方を確認していますし、お勧めできる絶景スポットなどはすべて英語で伝えられるようにしています。ご質問やお困りごとについて対処できた際に「Thank you.」と言っていただけたときは本当に嬉しいですね。
以前、周遊のプランで悩まれている中国の女性がいらしたので、富士山と五重塔と桜が綺麗に見える新倉山浅間公園をお勧めしました。その方はタクシーで目的地に行かれ、帰って来られた際には「とっても良かったです」と仰って、撮られた写真を嬉々として見せてくださいました。こんな国際交流も、旅館ならではのものだと思います。
世界中から来られるお客さまを、いいチームに囲まれておもてなししながら成長できるこの仕事を、私は心から楽しんでいます。
Message
人生の先輩から若者に向けて
「仕事や人生を楽しむコツ」とは?
人を想う力
株式会社丸栄ホテル「若草の宿丸栄」
代表取締役社長
渡辺洋氏 hiroshi watanabe
Editor's Note編集後記
「人が人を癒す」経営に舵を切った渡辺社長の言葉がとても響きました。私も、出張や取材・旅行などでホテルや旅館を利用することはあります。建物や設備に魅力を感じることもありますが、最後まで印象に残るのはその場所で働いている人の親切心や他愛もない会話です。世界各国から外国人が訪れるこの地域に、人が人を癒す旅館があることに誇らしく思いました。
(原由利香)